時間について

中学1年のときこのテーマで弁論大会に出場し準優勝だった。
もっとも優勝者も中1だったので自慢も私らしく中くらいか。

1年のはじめ、また時間について考えた。物理的時間や感覚的時間。
科学と哲学がごちゃ混ぜになってしまう。

古来、その時代の科学が解明できないことを哲学が担当してきた側面もあるので、
「時間」などと言う大雑把なテーマ自体、あまりに曖昧模糊としている。

今回は、時間を越える存在について。

古くは萩尾望都の『ポーの一族』、最近では荒川弘の『鋼の錬金術師』(DVD版)などが、いい例(?)だと思うのだが、時間を超越した存在、あるいは「愛」。

『鋼』は少し補足が必要か。女は一人の男を数百年愛し追い続けた。その男は数百年かけて本当に愛する女に出会った。ともにまだ命は続くとしたら・・・。といったところか。

そもそも「永遠」は存在するのだろうか。時間を意識しうる最後の生命が死に絶えても時間は流れる。そこに流れるものを「時間」と呼べるのだろうか。

意識して初めて存在が確認できるという時間の感覚的側面は、
その観測者(意識主体)を拒否したがっているとさえおもえてしまう。

感覚的側面で言うなら、何かと言うと私のPC画面に現れて、無駄な時間を冷静に過ごすように強制するあの砂時計アイコン。あれは一種、時間の支配者のように振る舞う。

一方で紅茶を淹れるときなど、カウントダウン式タイマーの味気なく役に立たぬことときたら、時間の奴隷のような機械と言わざるを得ない。

物理的にも哲学的にも時間は連続するものなのだから、砂時計は「正しい」と思うのだ。
だから私は紅茶は砂時計で淹れる。砂が落ちきったら自分の目で茶葉を確認する。

新年早々、とりとめもなく語ってしまった。
美味しい紅茶でも淹れて、頭を整理しなければ。

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by hirorin330 | 2005-01-07 12:40 | 日常