バッハ最古の自筆譜
二度に及ぶ白内障の手術がもとで命を縮めた。
強力な凸レンズであるところの水晶体が混濁することによっておきる視力障害、
即ち白内障は、水晶体混濁を除去することで大いに改善する。
現在では、超音波、レーザーなどの最新医療機器のおかげで、
日帰りで手術を受ける人も珍しくなくなってきた。
が、250年以上前の医療技術では、水晶体全摘出が、せいいっぱいで、
水晶体を支えるチン氏帯を切除し瞳孔域から脱落させるだけということもあった。
にしても、強力な麻酔を必要とし、バッハの晩年の体力を消耗させたのは確実。
二人目の妻(最初の妻とは死別)の手記に興味深い記述がある。
術後、妻の顔がはっきり見える、と喜んだ、というのだ。
混濁の除去だけでも世の中が明るく見えたということだろう。
常識的に考えて、+20.00Dほどもある水晶体を除去すると、
正視だった人はそのぶん遠視になるはずだ。
一方、近視だった人は、その近視を打ち消して、遠視になる。
理論上、-20.00Dの近視の人は、正視になるはず。
-20.00Dもあったかどうかはともかく、
バッハが近視であったことは知られている。
とはいえ、近視の高齢者は、読書時にメガネをはずすことが多いが、
晩年のバッハも楽譜に向かうのには、さほど不自由はなかったのではないか。
で、だ。
バッハの近視。
原因は、幼い頃の眼の酷使にあるのではないかと言われてきた。
暗いところで細かいものを見つめ続けた結果だといわれている。
幼くして両親を亡くしたバッハの音楽教育は、オルガニストの長兄が担当した。
その最初の師匠である長兄の指示で、高度な楽譜は取上げられていたのだ。
先走って基礎をおろそかにすることを危惧してのこととも、
深読みしすぎだと思うが、有り余る弟の才能に嫉妬してとも言われている。
で、若きヨハン・ゼバスチアンは、どうしたか。
兄が床に就いた深夜、ろうそくの炎の下で写譜したというのだ。
兄を師匠として尊敬していたので逆らえず、
かといって向学心、好奇心も押さえきれず、というところか。
晩年も兄に対する恨み言は一言も残していないし、
兄弟関係も良好ではあったようだが、眼の負担になったことは疑いない。
そんな大バッハの「近視説」を裏付ける一次史料があらわれた。
なんと、最古、つまりバッハが一番若かったころの自筆譜だという。
(朝日新聞9月1日朝刊)
13歳頃にD.ブクステフーデの楽譜を写譜したものと
15歳くらいにJ.A.ラインケンの楽譜を写譜したものだという。
この年代で暗いところで細かい作業を長時間すると確実に眼の負担になる。
現在、調節緊張と呼ばれ、かつて仮性近視とよばれたのもこれに近いと思われる。
いずれにせよ、極めて丁寧な写譜の様子がうかがえる資料だそうで、
若いバッハがほの暗い光の下で熱心に写譜したかと思うと胸が熱くなる。
公開されるのならすぐにも飛んで行きたいと思う。
わが若き日の情熱もよみがえりザワザワと血が騒ぐのだ。