トラバント
あの頃は、ベルリンの壁の崩壊の影響が、
盛り場のゲームセンターにまで及んでいた。
クレーンゲームの景品に、
トラバント(愛称:トラビ)の玩具が並んでいた。
ナンバープレートの記号が泣かせる。
DDR-1989 (ドイツ民主共和国-1989)
東ドイツが当時世界に誇ったクルマだ。
1958年の発売当時、500ccで約20馬力。
同年に発表されたてんとう虫、スバル360が、
360ccで16馬力だった。
共に2ストロークの大衆車と思えば、
トラバントは、堂々たるスペックだったろう。
が、だ。
その後、壁が壊れるまでほとんど進化しなかった。
最終的に600ccにまで拡大されたエンジンだが、
2ストロークのままで25馬力前後だったという。
日本の軽自動車でいうと、1970年代レベル。
それを90年代はじめまで製造していた。
それでも東ドイツ市民には、憧れのクルマで、
納車まで10年とも言われたほど。
トラバントの出自を見ると、ホルヒ社まで遡れる。
つまり、アウディの遠縁といえなくもない。
第一次大戦後の混乱の中で、ドイツメーカー4社が、
大同団結してできた「アウトウニオン」の流れだ。
ちなみに、現在のアウディのマークは、
その当時の4社を表しているという。
しかし、そもそもトラバントの名前がどうかと思う。
Trabant には、「衛星」という意味があるそうだ。
これは、トラビ誕生前年の、
ソ連の人工衛星「スプートニク」にちなんでいる。
東ドイツが、「社会主義の優等生」と呼ばれたのは、
こんなところにも理由があったのかもしれない。
ほとんどいじらしいまでの媚の売り方だが、
走行性能はもちろん、安全性も58年当時のまま。
ボディーは強化プラスチック製でドラムブレーキ。
前照灯の高低は、いちいち車を降りて操作した。
ちょうど20年前の今頃、ベルリンの壁は崩れ、
東ドイツ市民が、トラビで西側を走れるようになった。
そのころ日本では、3000cc 240馬力の
トヨタ・ソアラが一世を風靡していた。
トラビの、排気量で5倍、出力で10倍のクルマが、
ユーラシアの東の端では、人気を博していたのだ。
壁が崩れてから共産政権が一斉崩壊するのは、
時間の問題だったといえる。
盛り場のゲーセンのクレーンゲームの前で、
様々な思いとともに、しばし、たたずんでいた。
余談だが、¥500でこの黒とグレーをゲット。
そのグレーが、どこに行ったかは、定かでない。