タグ:バッハ ( 18 ) タグの人気記事

a0022024_244012.jpg


引き出しの奥から懐かしい指輪が出てきた。
オッサンがはめるには派手。

なので、衝動買いはしたが、
あまり、はめる機会もなかった。

ご覧いただけるだろうか。
五線上のト音記号や音符を。

a0022024_2442586.jpg


J.S.バッハのフーガト短調 BWV578、
いわゆる「小フーガ」のテーマだ。

a0022024_2444076.jpg


NO BACH, NO LIFE な私が、
これを見過ごすことができようか。

懐かしいなあ。
思わずはめて、息をのんだ。

リングがタイトなのだ。
泰斗ならよかったのに。

駄洒落はともかく、いや、焦った。
切断することになったらどうしよう。

ト音記号の左で切ってもらえるだろうか。
テーマの途中だけは勘弁してほしい。

と、手に汗握ったのがよかったのか、
するりと抜けた。

もう二度とはめない。
時々眺めるだけにしよう。

やれやれ。
時の流れの残酷さは、相変わらずである。
a0022024_17515894.jpg


実は、ヴァイオリンという楽器には、
言葉で言い表せない感情を持っている。

弦を擦って音を出す、という演奏方法は、
魅力的ではあるが、ときに過激にもなる。

しかし、情念や熱情を表現するのなら、
ヴァイオリンが最もふさわしいと思う。

マキシム・ヴェンゲーロフは、
ロシア出身のヴァイオリニスト。

超絶技巧をさらりと演奏する。
このCDでは、バッハが気になる。

イザイのソナタ2番には、
バッハのフレーズが使われているし、

なんといっても、
トッカータとフーガニ短調が演奏される。

知らない人はいないと思われる、
バッハのオルガンの名曲である。

それを、ヴァイオリンで演奏している。
この曲には、長い論争がある。

バッハの作品ではない、というのだ。
そもそもオルガンの曲ではない、とも。

ふと、その論争を思い出し、
あらためて聴いてみた。

確かにトッカータは、
ヴァイオリンのほうが似合う気がする。

しかし、弦楽器にあのフーガは、
十分再現できない。

フーガ=対位法的楽曲は、
声楽や鍵盤楽器こそふさわしい。

確かにバッハの無伴奏チェロソナタには、
フーガが存在する。

しかし、どうしても限定的で、
無理があるように聴こえる。

このチェロソナタに触発されたのか、
ブリュス・フォックス=レフリシュが編曲した。

といっても、きわめて即興的で、
ヴァンゲーロフの即興演奏といっても無理はない。

それほど、特にトッカータは、
ヴァイオリンのものとなっている。

ただし、やはりフーガは、限界がある。
大オルガンで聴きたいと再確認した。

私なりの結論を言うと、
オルガン曲で問題ないと思う。

ただし、N.ブルーンスもそうであったように、
バッハもヴァイオリンの得意なオルガニストだ。

作曲の途中、あるいは、インスピレーションは、
ヴァイオリンの奏法から得たかもしれない。

だが、バッハの作品かどうか、
は、聴いただけでは判断できない。

バッハの作品であってほしいと願う私は、
そう、刷り込まれただけかもしれない。

ただ、言えることはある。

人々があまりにも長くバッハを忘れたことが、
こういう論争を生み出したのだ。

痛恨の極みである。
私が言うのもどうかと思うが。
a0022024_19183791.jpg

サン・セバスティアンのヴィジャロボス。
コーヒーのお話。

セバスティアンだからといって、
バッハではない。

ヴィジャロボスだからといって、
ブラジル風バッハでもない。

サン・セバスティアン農園の
ヴィジャロボス種のコーヒー。

でも、エイトール・ヴィラ・ロボスと、
同じスペル。

ヴィラ・ロボスは、現代ブラジルの作曲家。
幼少より生涯、バッハを敬愛した。

多作な彼だが、代表作は、
『ブラジル風バッハ』。

バッハの組曲を意識して、
ブラジルの題材から作曲した。

1番のチェロのための曲、

5番のソプラノとチェロの曲が特に好き。

語り出すと長くなるので、今回は、
You Tubeからの紹介にとどめる。

だって、コーヒーのお話だから。
そう、コーヒーのお話。
a0022024_19194089.jpg

なのに、シャンパンボトル。
でも、理由は単純明快。

コーヒー店で豆を買って帰ると、
真空パックがいつの間にか膨らんでいる。

豆からガスが出ているから。
ガスと一緒に、芳香もまた。

そこで、この会社は、考えた。
シャンパンボトルに詰めよう。
a0022024_192031.jpg

なるほど、あえて、真空にせず、
ガス圧で、香りを閉じ込めるのだと言う。

いただいたとき、ワインと疑わなかった。
が、振ると音がして驚いた。

理由を知って納得、だが、
農園と豆の種類でまた驚いた。

そういえば、昨日は、
ユリウス暦でバッハの誕生日。

最近怠慢だったが、今夜あたり、
ミルを引っ張り出して、挽こう。

ヴィラ・ロボスを聞きながら、
コーヒーをいただこうと思う。


ありがとうございました。
「鼻から牛乳」のトッカータと同じく、
冒頭の音に装飾がつく。

前奏曲だけで8分前後かかるうえ、
フーガの主題も3つある大曲。

若き日の私は、この曲に大変苦労して、
開き直って、「ライフワーク」と呼んだ。

いまだに完成の域には達していない。
いまだに「ライフワーク」。

が、バッハのオルガン曲の中では一番好き、
かな。

今回は、先ず、前奏曲のご紹介。
なんて、少し、偉そう過ぎるか。

曲全体を軽快なリズムが支配するが、
両手両足にとっては難行苦行。

機械的な構造の古典楽器では、
さらに演奏の難易度はあがる。

平たく言うと、鉄下駄をはいてワルツ、
そんな感じではないか。

大聖堂の巨大な空間で音の洪水に浸る、
オルガンの醍醐味が凝縮されている曲。

You Tube に、楽譜つきを見つけた。
音を目で追うだけでも楽しい。



バッハの作品には、二つの、
「二つのヴァイオリンのための協奏曲」がある。

時系列で見ると、1713~14年頃という、
ヴィヴァルディの協奏曲の編曲が早い。



調性はイ短調で、
オルガン独奏のために編曲されている。



バッハは、ヴィヴァルディの協奏曲を、
他にも数曲オルガン独奏に編曲している。

研究のため、自分の楽しみのため、
苦もなくさらさらと書き写したようだ。

それらは、オルガンの教本としても使われ、
現代にまで伝えられている。

のちに、1730年頃、自身の作品を作曲した。
ニ短調のそれは、荘厳にして軽妙。



二本のヴァイオリンソロは、
かけあい絡み合い、ポリフォニーを形成する。

大好きな曲。
だが、告白しよう。

初めてこの曲を聴いたのは、
「ダバダバ」だった。



スゥイングルシンガーズのスキャット。
小学生の私は、背筋がぞくぞくした。

それがどういう曲か知ったのは、
中学生になってから。

しかも、「ダバダバ」が原曲に実に忠実で、
改めてスゥイングルシンガーズに感動した。

彼らの端正なスキャットのおかげで、
さらにバッハとジャズが好きになった。

そして、スゥイングルシンガーズはもちろん、
彼らの祖国、フランスにも興味を持った。

今では、リースリンクよりピノが好きだが、
それは、また、別のお話。

いや、この季節、木陰で飲む、
よく冷えたリースリンクは、やはり捨てがたい。

ああ。
なんとも、だらしない話ではある。
a0022024_17345366.jpg


手元の資料によると、この曲の初演は、
ライプツィッヒ、1723年の今日、7月2日だそうだ。

バッハ自身、以前から温めていた曲で、
満を持しての初演だったと思う。

カンタータ147番なんて知らない、と言う方も、
きっとこのメロディーはご存じだろう。

このカンタータの第6曲。



バッハの時代、すでによく知られたコラールが、
持続的な美しい3連符の伴奏に支えられる。

一般には、主よ、人の望みの喜びよ、
というタイトルで知られるが、
まったくもって、意味不明。

英語の題名"Jesu, Joy of man's desiring"
の訳だと思うが、これがそもそも何故だ、な訳。

原題は、"Wohl mir, daß ich Jesum habe"
直訳で「私がイエスを持っているなんという喜び」。

「私がイエスを自分のものとできたのは、
なんという喜びでしょう。」といったあたりの意味か。

英語の題名を作ったのは、いったい誰だ。
それをまんま邦訳したのは、いったい誰だ。

これは、少し聖書を知る必要があるかもしれない。

マリアは、神の御子を身ごもった、とされる。
それを告げに来たのが、大天使ガブリエル。

この時の情景は、ダビンチなどの手によって、
『受胎告知』として、数々の名画が残されている。

ガブリエルは、驚くマリアに、さらに、
あなたの親類のエリザベツも高齢だが身ごもっている、
もう、6か月だ、と告げた。

半信半疑のマリアが、エリザベツを訪ねると、
「わが主のお母様にご訪問いただいて、
お腹の子供が喜んでいます。」と告げらる。

エリザベツのお腹には、ヨハネ、
のちの洗礼者ヨハネが宿っていた。

洗礼者ヨハネとは、ヨルダン川で、
イエスに洗礼を授けたヨハネだ。

3月25日に受胎告知を受け、
その後、エリザベツを訪ねた祝日、
その日のための曲、というわけ。

ルター派のプロテスタントだったバッハは、
マリアを特別視はしなかった。

同様に英語訳した人も困ったのだろう。
「聖母」としたくなかった、とこいうところか。

ひとつ考えられるのは、この曲のもとになった、
コラール(讃美歌)の題名は、

"Jesu,meiner Seelen Wonne"で、
訳すと「イエス、わが魂の喜び」となる。

ちょっと、近くなった気もする。
かな。

にしても、「人の望みの喜び」って、なんだ。
この際、原題から邦訳しなおしてはどうだろう。

メロディーが、あまりにポピュラーで、
題名の意味も不明なまま定着してしまった、のか。

そう、題名と言えば、そもそもこのカンタータの題名。
"Herz und Mund und Tat und Leben"
直訳で『心と口と行いと命』となる。

この「命(Leben)」の訳が、また苦しい。

私の持っているLPは、1964年の録音で、
リヒターの指揮するミュンヘンバッハオケだが、
『心と口と行いと生活をもって』と訳してある。

ところが、最近は、"Leben"を
「生きざま」と訳すようだ。

生々しくないか、「生きざま」って。

いや、もうよそう。
今日の記事の目的は、愚痴ではない。

初演の日を記念して、
第1曲『心と口と行いと生きざまもて』を
知ってもらおうというものだった。



華麗にして典雅、
トランペットも木管も上品にまとめ上げた、
アーノンクールの指揮もさすが。

もちろん、あのコラールも素晴らしい。
極東の島国でも知らぬ人は少なかろう。

だが、全曲を通じて
「イエスを身ごもったマリアの喜び」がうたわれる、
この147番のカンタータにあって、
冒頭からファンファーレのように聴衆を魅了する、
この合唱曲の魅力も
なにものにも代えがたいものがある。

287年前の今日、ライプツィッヒ・トーマス教会で、
いつものように教会に通った人が、
バッハの指揮するこの曲を聴けたというのは、
実にうらやましい、シンプルにひたすらうらやましい。

私にとって、それは、
天国に席を約束されたに等しい喜びだ。

いや、もうすこし、こちらでしたいこともあるのだが。
この頃では、金のなる木は、生えてない、
などという言い方はしなくなったようだ。

放っておけば、金がなる木なんて、
いかにも非生産者的な発想ではないか。

「木」である限り、水をやったり肥料を与える、
そういう労苦も伴うはずなのに、
植えていれば、遊んで暮らせる木なんだ。

まあ、植えた後も世話が要るなら、
ありがたみも半減ではあるが。

公家、武家、そして江戸っ子(都市民)は、
一次産業から縁遠いからだろうか。まあ、いいが。

いや、祖母の遺品を整理しつつあるのだが、
面白いものが出てきた。

a0022024_17141852.jpg

それほど古いものでもないと思うが、
「江戸名物」とある。

誰が行ったのか、誰の土産なのか。
祖母は、京都より東は知らない。

a0022024_1717942.jpg


あけてびっくり、歌川芳虎の浮世絵、
それを、谷中のいせ辰が複製パネルにしたもの。

浮世絵と言うよりは、駄洒落連発の縁起ものか。
枝枝には、慈悲深き、潔き、辛抱強き、などの言葉。

これらの「木」を大事にすれば、
自ずと「金のなる木」になるということか。

ということは、やはり、
植えっぱなしではいけませんよ、という教訓か。

で、思い出したのが、一昨日生誕325年を迎えた、
大バッハの「家系樹」。あんまり関係ないが。

a0022024_1751154.jpg


バッハの一族も経済的には恵まれず、
貧困と言っていい生活だったようだ。

大バッハは、敬虔なキリスト教徒だったので、
「金のなる木」的発想はなかったと思う。

その代わり、より良き待遇を求め、
現実的な転職を繰り返した。

教会と宮廷をほぼ交互に、
ドイツ全土と言っていいくらい転々と。

「芸術家」が市民や権力者から認められ、
特別な扱いを受けるには、まだ時間がかかる。

ファイト・バッハを祖とした、この家系樹は、
大バッハ、ヨハン・セバスチアンが作らせたという。

大バッハは第26代だが、よく見ると、
生没年に関係なく順位が振られていたりする。

そして第47代以降は、結構親ばかだったのか、
自分の子供と孫だけで占められている。

残念ながら、300年以上過ぎた今、
直系の子孫は絶えてしまっている。

大バッハとほぼ同じころ生まれた、
薄利多売の元祖だった越後屋・三越も
やがて、高級百貨店となり、
越後屋から生まれた三井銀行は、
紆余曲折を経て、三井住友銀行となり、
昨今は、三越百貨店も、
社会の構造変化にさらされ、苦労をしている。

子孫が永く幸福であることがいかに困難か。

「金のなる木」は意外性の大きい遺品だが、
祖母は、ただ一人の内孫である私が、
いつか、見つけること期待していたのかも。

辛抱強木、なんて苦手だもんなあ。

1年先のことも不透明な私だが、
105年生きた人に従って、
金のなる木でも植えてみようか、
と一瞬は思ったのだった。
通奏低音は、音楽学の「古典」だと思う。
ただ、バッハやバロックを学ぶなら必須。

a0022024_1832118.jpg


ヘルマン・ケラーのこの著作は、
1931年が初版。

ヒトラーが政権をとる以前。
で、第4版が、1955年。

その第4版の野村満男による邦訳が、
1976年で、私のは1981年版。

1955年の第4版に寄せられた著者の言葉には、
第3帝国の12年は、一言も触れられていない。

a0022024_18361360.jpg


感心するのは、この翻訳本が、
ページまで忠実に再現しているところ。

a0022024_18372744.jpg


音楽書の場合、譜例も多いので、
原書と対比するときに大いに助かる。

私の中では、翻訳書は、原書より厚くなる、
という一種の擦り込みがある。

a0022024_18453968.jpg


たとえば、A.シュヴァイツァーの『バッハ』。
初版は、1905年。1979年版もほぼ同じ厚み。

a0022024_1846353.jpg


ただ、初版本は、装飾文字。
21世紀のドイツ人には、古文書。

極東から来た学生が読めるので驚かれた、
という、甘い思い出がある。

文化は、むしろその辺境にただしく遺る、
といういい例かもしれない。

閑話休題、その日本語訳本。
なんと、上・中・下の3巻にもなる。

豊富な解説や新しい研究が添えられるため、
分厚くなるのは、必然ではある。

音楽は、人に喜びを与える。
哀しみの中にあって癒しともなる。

ケラーが初版の序文で奨励したような、
「誠実な音楽家」にはなれなかった私だ。

が、せめて何か、今の自分にできることはないか、
苦しみながら模索している。
a0022024_1829867.jpg


安価な紙ジャケの輸入CDによくあるのだが、
ラッピングが、タイトというかハード。

国産のプラスチックのケース入りのように、
ここからはがす、みたいなガイドもない。

ジャケットは傷つけたくないけど、
結構力がいるし、刃物を使うこともある。

で、ラッピングを破るときには、
それなりに神経を使うことになる。

このCD、LPで持ってはいるが、
当時のLPの半額という価格もあって買った。

思えばLPは、針を落とす時に神経を使った。
そして、音が出るまで、ワクワクしたものだ。

今では、ラップをはがすのにドキドキしている。
なんかちがうぞ、ドキドキ、ワクワクが。




どなたか簡単、安全にラッピングを破る、
あるいははがす方法をご存じないでしょうか。
a0022024_1934680.jpg

Et in terra pax hominibus bonae voluntatis.
(そして地には平和、よき志の人々にあれ。)

『ロ短調ミサ』の3回目。
無謀な挑戦をしみじみと後悔している。

天上の神の栄光を称える華麗なGloria に続くパートは、「地には平和」。
一変して穏やかな空気が流れる。

バスの導入に半拍遅れで女声の3パート、さらにテナーが続く。
このいわば「予告編」が、続くポリフォニーに実に効果的だ。

さらに6小節の「イントロ」に続いてソプラノIがテーマを歌う。
背筋がぞくぞくする瞬間だ。

アルト、テナー、バス、そしてソプラノIIと続くメロディーは、
ポリフォニー合唱曲の最高到達点だと思う。

文字通り紡ぎあげられる、繊細な音の糸は、
やがて壮麗なタペストリーを織り上げる。

これは、単に音楽性だとか天賦の才だとかを越えて、
バッハの精神性だけがなしえた業だろう。

これは、素人の感想にすぎないのだが、
グローリアの1曲目、2曲目で、一つのまとまりを感じる。

もちろん、終結という意味ではないのだが、
2曲目で、一定の収束感を覚えるのだ。

思い当たる節がある。
オルガン曲だ。

つまり、1曲目「Gloria in excelsis Deo」が「プレリュード」で、
この2曲目が、「フーガ」。


混声合唱とオーケストラの曲に、
バッハのオルガン曲に多い「プレリュードとフーガ」の形式が見えるのだ。

そういう楽譜があるのならぜひ弾いてみたいし、
及ばずながら、編曲してみたい誘惑にも駆られる。

にしても、汲めども尽きぬバッハの泉だ。
いや、バッハ(小川)ではなく海だと言ったのは、ベートーヴェンだっけ。

『ロ短調ミサ』をめぐる私の苦闘は続く。